私があなたの写真を撮る理由。あるいは記録と表現の間にあるもの。

あなたがこの世に生を受けて早いもので1年が経ちました。

無事に生まれてきてくれてありがとう。いつも笑顔でいてくれてありがとう。私達が疲れ果てている時には、ぐずったりわがままを言ったりせずにすぐに寝ようとしてくれてありがとう。ご飯をちゃんと食べてくれてありがとう。毎日元気でいてくれてありがとう。

この1年であなたの写真を何千枚も撮りました。

Lightroom

最近は、写真の中に自分や家族の顔を認めると笑ってくれるようになりましたね。撮影中にどんどんこっちに近寄ってきて、液晶画面で自分の写真を確認して笑うあなたを見ていると、写真をやっていてよかったと心から思います。

決して上手な写真ではありません。第3者に見せても親バカだと笑われるだけですし、コンテストで入賞なんてもってのほか。でも、プロのカメラマンにも撮れない表情が、私には撮れる。家族だけで共有した瞬間が、そこにはありありと残っている。

何千枚の写真を振り返ると、本当に写真をやっていてよかったと思います。盛大にブレた写真ですら、急に泣かれて焦ったあの時の気持ちがまざまざと蘇るようです。

第3者による客観的な「記録」ではない。第3者に伝えたい何かを「表現」したものでもない。撮る側も、撮られる側も、その写真を誰かに見せることを全く意識していない。そういった、撮影者と被写体だけが共有した私的な時間の断片こそが、少なくとも私にとっての写真の原点なのだと改めて思うのです。あなたがその写真を見た時に、そこには写っていない、でもあなたは見ていた、その時の私のことを思い出してくれるような。

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SNSがこれほどまでに世界に浸透する以前は、他人が撮った写真を見る機会なんて殆ど無かったはずです。自分が撮った写真を自分で見る。旅行やイベントの写真を同行者と見る。あるいは「こんなところに行ってきたんだよ」と家族に見せる。殆どの撮影者にとって、そういった、「手の届く範囲の」鑑賞者が全てだったのではないでしょうか。最近は、シェアやリツイートやいいね!の集めやすさが写真の評価基準のようになっている風潮があって、それはそれで自分の写真を多くの人に観てもらえる素晴らしい時代なのですが、いつの間にか、会ったこともない第3者へのウケを考えて写真を撮ってしまうことが多くなっていたことに気付かされました。

A girl's dream

いつかは撮れなくなるのかな。その前に撮らせてくれなくなっちゃうか。でも、たとえ明日死んでも、私が今日までに撮った写真は残る。「その日その時、私はこんなにあなたを見ていたんだよ」という眼差しの証拠。それらが、いつかあなたを泣かせる日は来るのかな。1年分のあなたの写真を見返しながら、そんなことを考えました。